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『ギリシア哲学と主観性』- 初期ギリシア哲学研究(日下部吉信・著).jpg

お久しぶりです。


『ギリシア哲学と主観性―初期ギリシア哲学研究』の著者・日下部吉信氏のブログがあることを知り、昨日見てみました。


現在、『ギリシア哲学講義・30講』という講座が開講されているらしく、講義録がPDFとしてアップロードされています。

今まで良く読んでいた本なので、PDFのリンクを貼り、自分用のメモとさせていただきます。ページをご覧の皆様も、よろしければ読んでみてください。

個人的な感想としては、もっと穏やかに自分の道を行けばいいではないかとも思えるのですが、古代ギリシア人が経験(初めは哲学者のような鋭い人々、後々は一般の人々)したように元々の生き方を相対化・対象化し、変えてしまおうという主観が現れた際の争いは非常に厳しくなるようです。(いずれ多数派が形成する政治は失敗・陳腐化し、反対派に対する魅力や支持が集まるからだろう)

また、構造や存在と言われているものも、民族性を指している場合と生物しての特徴を指している場合(どうやら哲学では避ける傾向があるようですが)どちらを考えるべきか悩む場合があります。

と、読み始めてから随分時間が経っているにも関わらず、未だ考えがまとまらない訳ですが、時々ここに戻って何かを考えるには非常に有益な本だと思います。




第1講 はじめに   -ハイデガーと西洋形而上学-(PDF)
第2講 講義の概要 (PDF
第3講 否定性の哲学(ゴルギアス・ゼノン)(PDF)
第4講 プロタゴラス・ソクラテス・プラトン(PDF)
「ソクラテスよ、なぜ君はそんなにも頑張るのかね」(プロタゴラス)
第5講 ソピスト(PDF)
第6講 ピュシス(其のⅠ)(PDF)
         「古代ギリシアにおける自然概念」、「ノモスとピュシス」、
         「主観性を否定する原理としてのピュシス」
第7講 ピュシス(其のⅡ)(PDF
          「ピュシスに呪縛された哲学者アリストテレス」、「アリストテレスの自然学」
第8講 ピュタゴラス哲学(PDF
                     「ピュタゴラス」、「ピュタゴラスとテラトポイイア」
合理(ロゴン)と非合理(アロゴン)が互いに求めあう原理であるという真理の具体的表現になったという点にこそあるのであります。ピュタゴラスは存在ないしは現象そのものが哲学的考察の課題であるような哲学者なのであります。ギリシアには、哲学者と言うよりは、哲学そのものとも言うべきような人物が多いですが、特に初期ギリシアの哲学者にそのようなケースが多く見られますが、 ピュタゴラスもそのひとりであります。しかも顕著な事例と言わねばなりません。近代世界の一面性を露ならしめ、その問題性を問うためにもわたしたちはピュタゴラスを復活させねばなりません。
第9講 デモクリトス(PDF
彼の知的関心の特徴はその烈しさ、過激さですが、その発生源は両方向に張り詰めた志向性の緊張にあったのではないでしょうか。そこに彼をして世界中を歩き廻らせたエネルギーの発生源があったのではないでしょうか。理念化への方向と深層への方向、意識化の方向と無意識化の方向、合理の方向と非合理の方向との間に張り詰めた志向性の緊張、それが「哲学者デモクリトス」という現象だったのではないでしょうか。
第10講 アリストテレス(其のⅠ)(PDF)
          「哲学者アリストテレス」、「アリストテレスのイデア論批判」、「アリストテレスの存在論」
第11講 アリストテレス(其のII)(PDF
          「アリストテレスの倫理学」、「アリストテレスの制作術」、「ペリパトス派」

最近は経済問題一色ですね。状況は大恐慌と比較されています。そして状況が悪化すると普段はあまり取り上げられない経済理論が取り上げられるようになります。大学時代がちょうどアジア通貨危機の翌年から日本の不良債権処理でテレビの話題が一色だった時期に重なっていたので、その時の状況から、また経済の本を熱中して読み始めるような予感がしています。


また、去年から債券や株式の基礎的な部分を勉強しなければならなくなったことから、利子、将来価値、利回り、配当、内部留保、成長率・・・とうんざりするような時間を過ごしていました。


こんな時、それに真っ向から立ち向かった人びとの話を聞きながら改めて今までやってきた計算の勉強をし直すと何かしら意義のようなものを見つけることが出来るようになります。


キーワードとしては、モモ、エンデ、シルビオ・ゲゼル、プルードン・・・
と同時に、このサイトでもよく取り上げた『ギリシア哲学と主観性』という本。


プルードンをウィキペディアで調べてみましたが、その中に「矛盾とともに生きる」という言葉がありました。どのような考えか読んでもいないので分かりませんが、なにやら深そうだという予感はします。


電車の中での読書のテーマになりそうです。

新潮社 - 『国家の品格』特集ページ

 

『遥かなるケンブリッジ』の一部分をつまみ食いしたことがあるので、ちょっと読んでみようと思いました。


私も、数年前、新渡戸稲造(あっ、そういえばこの人の名前を「しんとといなぞう」と読んで、ゼミで笑われたことがある・・・)の『武士道』を読んでみましたが、この本の中でさえ武士道が廃れてしまったものとして扱われていたような。。。


よくよく考えてみると、武士道とはいつも目指すべき事柄として扱われているので、常に「そんな時代ではない。」と言われやすい考え方なのかも。武士道と呼ばれている考え方が生まれて最盛期になった時代でさえそうだったのではないかと感じてしまう。


(公地公民制が崩れて、荘園が発生し武士が生まれてきたと歴史で勉強するが、桜の花びらに対する貴族と武士の感じ方の微妙な違いはなんなんだろうか。)


江戸時代の身分別構成割合を見ると日本人の大半は武士出身ではなく、農民だった。しかし、初期の武士は農作業もしているし、秀吉が行った検地前は、農民と武士の区別は曖昧だった。実際の生活がどうであれ非常に質素な方向性を持つ武士道と日本人の感じ方がマッチする訳はなんなんだろうか。やはり、武士の起源をひも解いてみると理解できるのかもしれない。面白い。


『遥かなるケンブリッジ』のほうは、イギリス人相手に数日後講演をする時の緊張感がひしひしと伝わる文章でした。さて、今回は。。。

2014年6月

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