第1編第4章 戦争における危険

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「戦争とは危険なものだ」、「蝶が空気を飛ぶように、魚が水中を泳ぐように、戦争では危険のなかで行動することになる」というように、クラウゼヴィッツは『戦争論』のあちこちで「危険」を強調しています。現在生きている私たちは、確かに2度の世界大戦、アメリカとの戦争などを話や映像を通じて知っているため、この危険を知っているようにも思えますが・・・実際は、おそらく何もわかっちゃいないはず。

 

戦争論における精神的な事柄を扱う部分は、読書家が語るには荷が重すぎるものです。正直に言うと、非常に後ろめたい気持ちになるものです。平和を声高に叫ぶ人も、実際には「戦争における危険」を知らないため、その後ろめたさを内に秘めているものと考えられます。何事も声高に叫ぶ場合は後ろめたさがあるものなのかもしれません。しかし、仲間同士足の引っぱりあいをしていても仕方がありません。

 

「もう二度と戦争はしない」という政治的な表現はともかく、個々人の実際上の表現としては「もう二度とあんな思いをしたくない」という素朴なものです。しかし、この実感を伴った世代はおそらく「抑止力」を本能的に体感していたのかもしれません。世代が変わるにつれ、「戦争における危険」を実感できなくなり、「抑止力」が単なる安全保障学を学ぶ人の定義の暗記のようなものになってしまったのでしょう。

 

これは推測ですが、専門家も実感などしていなかった・・・と考えています。私たち日本人のほとんどが今年に入って実感しつつあるというのが本当のところなのかもしれません。

 

さて、この章でクラウゼヴィッツは、戦争における危険を読者に理解してもらうため【戦場の近くに来た時→軍司令官・幕僚→師団長→旅団長→交戦部隊】とそれぞれの階層における危険の印象を描きだしています。もう、5年ほど前になるでしょうか、塾で中学生と一緒に、『西部戦線異状なし』を観たときとほぼ同じような叙述をここで読むことができます。

 

そこでは、砲弾の音への集中、動揺、平静・落ち着きの喪失、呆然など様々な心の状態が描き出されます。

 

「戦争を知らない人は、実戦での危険を実感できない。戦争を考えると全て単純に見え簡単に勝利できると想像しがちだが、実際は違う。心を高揚・満足させる瞬間はほとんどなく、戦争の経過は徐々に進行するため勝利で歓喜に沸く瞬間もない。最初の危険を通り過ぎると、ほとんどの人が決断力を失うものだ。確かに30分もすればその環境に麻痺し無関心になるが、平静さや心の弾力性を取り戻すことは通常できない。」

 

戦争における危険は、軍事行動における摩擦の1つだと語ります。

 

そして「責任が増える(階級が上がる)につれ、精神的な能力の高い人(天才)が必要となる。熱狂的あるいは禁欲的、または生来的な勇気、強い名誉心、危険に対処する長年の経験などを身につけている必要がある。」と、摩擦に対処する精神的な要素を挙げています。

 

詳細は、第1編3章「軍事的天才」、第2編3章18,19などで軍事行動において必要とされる精神の様々な表現が考察されます。

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このページは、Naotaka Uzawaが2010年5月16日 23:52に書いたブログ記事です。

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